追憶 6

    二八 水泳

 僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風(ながいかふう)氏や谷崎(たにざき)潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会も芦(あし)の茂った中洲(なかず)から安田の屋敷前へ移っていた。僕はそこへ二、三人の同級の友達と通って行った。清水昌彦(しみずまさひこ)もその一人だった。
「僕は誰(だれ)にもわかるまいと思って水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびっくりしてしまった。ウンコは水よりも軽いもんなんだね」
 こういうことを話した清水も海軍将校になったのち、一昨年(おととし)(大正十三年)の春に故人になった。僕はその二、三週間前に転地先の三島からよこした清水の手紙を覚えている。
「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思う。僕は喉頭(こうとう)結核の上に腸結核も併発している。妻は僕と同じ病気に罹(かか)り僕よりも先に死んでしまった。あとには今年(ことし)五つになる女の子が一人残っている。……まずは生前のご挨拶(あいさつ)まで」
 僕は返事のペンを執りながら、春寒(はるさむ)の三島の海を思い、なんとかいう発句を書いたりした。今はもう発句は覚えていない。しかし「喉頭結核でも絶望するには当たらぬ」などという気休めを並べたことだけはいまだにはっきりと覚えている。

     二九 体刑

 僕の小学校にいたころには体刑も決して珍しくはなかった。それも横顔を張りつけるくらいではない。胸ぐらをとって小突きまわしたり、床の上へ突き倒したりしたものである。僕も一度は擲(なぐ)られた上、習字のお双紙をさし上げたまま、半時間も立たされていたことがあった。こういう時に擲られるのは格別痛みを感ずるものではない。しかし、大勢の生徒の前に立たされているのはせつないものである。僕はいつかイタリアのファッショは社会主義にヒマシユを飲ませ、腹下しを起こさせるという話を聞き、たちまち薄汚(うすぎたな)いベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。のみならずファッショの刑罰もあるいは存外当人には残酷ではないかと考えたりした。

     三〇 大水

 僕は大水にもたびたび出合った。が、幸いどの大水も床の上へ来たことは一度もなかった。僕は母や伯母(おば)などが濁り水の中に二尺指(にしゃくざ)しを立てて、一分(いちぶ)殖(ふ)えたの二分殖えたのと騒いでいたのを覚えている。それから夜は目を覚(さ)ますと、絶えずどこかの半鐘が鳴りつづけていたのを覚えている。

     三一 答案

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙(わらばんし)を配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。

     三二 加藤清正

 加藤清正(かとうきよまさ)は相生町(あいおいちょう)二丁目の横町に住んでいた。と言ってももちろん鎧武者(よろいむしゃ)ではない。ごく小さい桶屋(おけや)だった。しかし主人は標札によれば、加藤清正に違いなかった。のみならずまだ新しい紺暖簾(こんのれん)の紋も蛇(じゃ)の目(め)だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗(のぞ)きに行った。清正は短い顋髯(あごひげ)を生(は)やし、金槌(かなづち)や鉋(かんな)を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。



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追憶 5

二一 活動写真

 僕がはじめて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。僕は確か父といっしょにそういう珍しいものを見物した大川端(おおかわばた)の二州楼へ行った。活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚を釣(つ)っていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はなんでも麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶり、風立った柳や芦(あし)を後ろに長い釣竿(つりざお)を手にしていた。僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。が、それはことによると、僕の記憶の間違いかもしれない。

     二二 川開き

 やはりこの二州楼の桟敷(さじき)に川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯(ほおずきぢょうちん)を吊(つ)った無数の船に埋(うず)まっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩(なだ)れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清(かめせい)の桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろの噂(うわさ)が伝わりだした。しかし事実は木橋(もっきょう)だった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿事(ちんじ)を幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。

     二三 ダアク一座

 僕は当時回向院(えこういん)の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇(だいじゃ)、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高い桿(さお)の上からとんぼを切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座の操(あやつ)り人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化(どうけ)た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

     二四 中洲

 当時の中洲(なかず)は言葉どおり、芦(あし)の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂(かんじょう)や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

     二五 寿座

 本所(ほんじょ)の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りを眺(なが)めていた。すると亜鉛(トタン)の海鼠板(なまこいた)を積んだ荷車が何台も通って行った。
「あれはどこへ行く?」
 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」
 僕は今度は勢い好(よ)く言った。
「ブリッキ!」
 しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。
「ブリッキ? あれはトタンというものだ」
 僕はこういう問答のため、妙に悄気(しょげ)たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

     二六 いじめっ子

 幼稚園にはいっていた僕はほとんど誰(だれ)にもいじめられなかった。もっとも本間(ほんま)の徳ちゃんにはたびたび泣かされたものである。しかしそれは喧嘩(けんか)の上だった。したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。
 しかし小学校へはいるが早いか僕はたちまち世間に多い「いじめっ子」というものにめぐり合った。「いじめっ子」は杉浦誉四郎である。これは僕の隣席にいたから何か口実を拵(こしら)えてはたびたび僕をつねったりした。おまけに杉浦の家の前を通ると狼(おおかみ)に似た犬をけしかけたりもした。(これは今日考えてみれば Greyhound という犬だったであろう)僕はこの犬に追いつめられたあげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。
 僕は今漫然と「いじめっ子」の心理を考えている。あれは少年に現われたサアド型性欲ではないであろうか? 杉浦は僕のクラスの中でも最も白※(「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1-85-31)(はくせき)の少年だった。のみならずある名高い富豪の妾腹にできた少年だった。



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小浅間 続編

 こんな所でも蠅(はえ)が多い。峰(みね)の茶屋(ちゃや)で生まれたのが人間に付いて登って来たものであろうか。焦げ灰色をした蝶(ちょう)が飛んでいる。砂の上をはっている甲虫で頭が黒くて羽の煉瓦色(れんがいろ)をしているのも二三匹見かけた。コメススキや白山女郎花(はくさんおみなえし)の花咲く砂原の上に大きな豌豆(えんどう)ぐらいの粒が十ぐらいずつかたまってころがっている。蕈(きのこ)の類かと思って二つに割ってみたら何か草食獣の糞(ふん)らしく中はほとんど植物の繊維ばかりでつまっている。同じようなのでまた直径が一倍半くらい大きいのがそろって集団をなしている。
 この二種の糞を拾って行って老測夫に鑑定してもらったらどちらもうさぎの糞で、小さいのは子うさぎ、大きいのは親うさぎのだという。さすがに父だか母だかは糞ではわからないらしい。このうさぎを捕獲すればテント内の晩餐(ばんさん)をにぎわすことができるがなかなか容易には捕れないそうである。出歩く道がわかればわなを掛けるといいそうであるがその道がなかなかわからないと言う。それはとにかく、こんなはげ山の頂にうさぎが何を求めて歩いているのか、また蜘蛛(くも)や甲虫や蝶などといかなる「社会」を作っているのか愚かな人間には想像がつかないのである。
 帰りにはT君がふもとまで送って来てくれた。途中で拾った小さな火山弾の標本をおみやげにもらった。T君の住まいは玄関から座敷まで百何十メートル登らなければならないのである。観測の成効を祈りつつ別れをつげた。
 往路に若い男女の二人連れが自分たちの一行を追い越して浅間(あさま)のほうへ登って行った。「あれは大丈夫だろうか」という疑問がわれわれ一行の間に持ち出された。しかし、男のほうはもちろん女のほうもすっかり板についた登山服姿であり、靴(くつ)などもかなり時代のついた玄人(くろうと)のそれであり、またそれを踏みしめ踏みしめ登って行く足取りもことごとく本格的らしいので、あれは大丈夫だろうということになったのであった。われわれが小浅間(こあさま)の頂上に達したころはこの二人はもうかなり小さく見えていた。われわれのおりたころにはたぶん頂上近くまで登っていたことであろう。
 その夜星野温泉(ほしのおんせん)へ帰って戸外へ出て空を仰いだら久しぶりで天頂に星がきらきら輝いているのが見えた。T君が今夜は一晩星をねらいながら明かすことであろうと思って寝床にはいった。
 寝ながら、T君の小浅間頂上のテント生活と、近代青年男女の間に流行するいわゆるキャンプ生活との対照を思い浮かべてみた。後者のままごと式の野営生活もたしかに愉快でもありまたいろいろな意味で有益ではあろうが、しかし、前者の体験する三昧(ざんまい)の境地はおそらく王侯といえども味わう機会の少ないものであって、ただ人類の知恵のために重い責任を負うて無我な真剣な努力に精進する人間にのみ恵まれた最大のラキジュリーではないかという気がするのであった。
 そんなことを考えながら、T君の山男のような蓬髪(ほうはつ)としわくちゃによごれやつれた開襟(かいきん)シャツの勇ましいいで立ちを、スマートな近代的ハイカーの颯爽(さっそう)たる風姿と思い比べているうちに、いつか快い眠りに落ちて行ったことであった。



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小浅間

峰(みね)の茶屋(ちゃや)から第一の鳥居をくぐってしばらくこんもりした落葉樹林のトンネルを登って行くと、やがて急に樹木がなくなって、天地が明るくなる。そうして右をふり仰ぐと突兀(とっこつ)たる小浅間(こあさま)の熔岩塊(ようがんかい)が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそびえ立っている。その岩塊の頭を包むヴェールのように灰砂の斜面がなめらかにすそを引いてその上に細かく刺繍(ししゅう)をおいたように、オンタデや虎杖(いたどり)やみね柳やいろいろの矮草(わいそう)が散点している。
 一合目の鳥居の近くに一等水準点がある。深さ一メートルの四角なコンクリートの柱の頂上のまん中に径一寸ぐらいの金属の鋲(びょう)を埋め込んで、そのだいじな頭が摩滅したりつぶれたりしないように保護するために金属の円筒でその周囲を囲んである。その中に雨水がたまっていた。自分はその水中に右の人差し指を浸してちょっとその鋲の頭にさわってみた。
 この火山の機巧の秘密を探ろうと努力している多くの熱心な元気な若い学者たちにきわめて貴重なデータを供給するために、陸地測量部の人たちが頻繁(ひんぱん)な爆発の危険に身命をさらしながら爆発の合い間をねらっては水準測量をしている。その並み並みならぬ労苦は世人の夢にも知らない別世界のものである。そんなことを無意識に考えたためでもあろうか、この水準点ベンチマークの鋲の丸いあたまに不思議な愛着のようなものを感じてちょっとさわってみないではいられなかったのである。
 水準点のすぐそばに木の角柱が一本立っている。もうだいぶ長く雨風にさらされて白くされ古びとげとげしく木理(もくめ)を現わしているのであるが、その柱の一面に年月日と名字とが刻してある。これは数年前京都大学の地球物理学者たちがここにエアトヴァスの重力偏差計をすえ付けて観測した地点を示す標柱だそうである。年々に何百人という登山者のうちで、こんな柱の立っているのに気のつく人はいくらもないかもしれない。まして、その柱の意味を知る人はおそらく一人もないかもしれない。
 小浅間(こあさま)への登りは思いのほか楽ではあったが、それでも中腹までひといきに登ったら呼吸が苦しくなり、妙に下腹が引きつって、おまけに前頭部が時々ずきずき痛むような気がしたので、しばらく道ばたに腰をおろして休息した。そうしてかくしのキャラメルを取り出して三つ四つ一度に頬張(ほおば)りながら南方のすそ野から遠い前面の山々へかけての眺望(ちょうぼう)をむさぼることにした。自分の郷里の土佐(とさ)なども山国であるからこうしたながめも珍しくないようではあるが、しかし自分の知る郷里の山々は山の形がわりに単調でありその排列のしかたにも変化が乏しいように思われるが、ここから見た山々の形態とその排置とには異常に多様複雑な変化があって、それがここの景観の節奏と色彩とを著しく高め深めているように思われた。
 まわりに落ち散らばっている火山の噴出物にも実にいろいろな種類のものがある。多稜形(たりょうけい)をした外面が黒く緻密(ちみつ)な岩はだを示して、それに深い亀裂(きれつ)の入った麺麭殻(ブレッドクラスト)型の火山弾もある。赤熱した岩片が落下して表面は急激に冷えるが内部は急には冷えない、それが徐々に冷える間は、岩質中に含まれたガス体が外部の圧力の減った結果として次第に泡沫(ほうまつ)となって遊離して来る、従って内部が次第に海綿状に粗鬆(そそう)になると同時に膨張して外側の固結した皮殻(ひかく)に深い亀裂を生じたのではないかという気がする。表面の殻(かく)が冷却収縮したためというだけではどうも説明がむつかしいように思われる。実際この種の火山弾の破片で内部の軽石状構造を示すものが多いようである。
 それからまた、ちょっと見ると火打ち石のように見える堅緻(けんち)で灰白色で鋭い稜角(りょうかく)を示したのもあるが、この種のものであまり大きい破片は少なくもこのへんでは見当たらない。
 厚さ一センチ程度で長さ二十センチもある扁平(へんぺい)な板切れのような、たとえば松樹の皮の鱗片(りんぺん)の大きいのといったような相貌(そうぼう)をした岩片も散在している。このままの形で降ったものか、それとも大きな岩塊の表層が剥脱(はくだつ)したものか、どうか、これだけでは判断しにくいが、おそらく後者であろう。こんな薄っぺらなものが噴出されたとしても、空中で衝突し合って砕けやすいであろうし、また落下の衝動でも割れないわけにはゆかないであろうと思われた。
 その他にもいろいろな種類の噴出物がそれぞれにちがった経歴を秘めかくして静かに横たわっている。一つ一つが貴重なロゼッタストーンである。その表面と内部にはおそらく数百ページにも印刷し切れないだけの「記録」が包蔵されている。悲しいことにはわれわれはまだ、その聖文字(ヒエログリフ)を読みほごす知能が恵まれていない。
 数分の休息と三片のキャラメルで自分の体内の血液の成分が正常に復したと見えてすっかり元気を取りもどしてひと息に頂上までたどりつくことができた。
 頂上にはD研究所のT理学士が天文の観測をするためにもう十数日来テントを張って滞在している。バンベルヒの天頂儀(ゼニステレスコープ)をすえ付けて天頂近く子午線を通過する星を観測してこの地点の緯度をできるだけ精密に測定しておく、そうして他日また同じ観測を繰り返して、この地点が火山活動の影響のためにいくらかでも移動するかどうかを験出しようというのである。
 観測器械を入れたテントのそばには無線電信受信用のアンテナが張ってある。毎日午前十一時とかに東京天文台から放送される時報を受け取ってクロノメーターの時差を験するためである。
 このテントから少し北に離れて住居用の長方形テントが張ってある。ここがT君と陸地測量部から派遣された二人の測夫と三人の仮の宿である。これからまた少し離れた斜面にヤシャブシを伐採して急造した風流な緑葉ぶきの炊事小屋が建ててある。三本の木の株で組み立てられた竈(かまど)の飯釜(めしがま)の下からは楽しげな炊煙がなびいている。小屋の中の片側には数日分の薪材(しんざい)に付近の灌木林(かんぼくりん)から伐(き)り集めた小枝大枝が小ぎれいに切りそろえ積みそろえられていかにも落ち着いた家庭的な気持ちを感じさせる。
 測量部の測夫たちは多年こうした仕事に慣れ切っていて、一方では強力(ごうりき)人夫の荒仕事もすると同時にまた一方ではまめやかな主婦のいとなみもするのである。そうしてまた一方では観測仕事の助手としても役に立つという世にも不思議な職業である。年じゅう人の行かない山の中でこうした生活をして、陸地測量、地図作製という文化的な基礎仕事に貢献しているのである。
 測夫の一人はもう四十年も昔からこの仕事をつづけているそうで、北はカラフトから南は台湾(たいわん)まで足跡を印しない土地は少ないのだそうである。テントの中で昼食の握り飯をくいながら、この測夫の体験談を聞いた。いちばん恐ろしかったのは奄美大島(あまみおおしま)の中の無人の離れ島で台風に襲われたときであった。真夜中に荒波が岸をはい上がってテントの直前数メートルの所まで押し寄せたときは、もうひと波でさらわれるかと思った。そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それから長年月の後までも時々夢魔となって半夜の眠りを脅かしたそうである。また同じ島に滞在中のある夜琉球人(りゅうきゅうじん)の漁船が寄港したので岸の上から大声をあげて呼びかけたら、なんと思ったかあわてて纜(ともづな)をといて逃げうせ、それっきり帰って来なかったそうである。カラフトでは向こうの高みから熊(くま)に「どなられて」青くなって逃げだしたこともあるという。えらい大きな声をして二声「どなった」そうである。
 テント内の夜の燈火は径一寸もあるような大きなろうそくである。風のあるときは石油ランプはかえって消えやすくていけないそうである。
 なんの気なしにもらって飲んだお茶の水は天気のいい時は峰(みね)の茶屋(ちゃや)からここまでかつぎ上げなければならぬ貴重なものである。雨のときはテントの屋根から集めるという。

看護師 求人


看護師国家試験 [イベント]

看護師国家試験の合格発表が本日行われますね。

厚生労働省によると、今回の看護師の受験者数は53702人、

そのうち合格者数が48400人ということで、

看護師国家試験の合格率は90%ということになりますね。

ちなみに上記の看護師国家試験の受験者数のうち

4000名程度が既卒者で、そのうち2500人しか受かっていません。

やはり看護師国家試験は新卒者の方が受かりやすいのでしょうか?

それとも、この就職難に何の知識もない人が看護師国家試験を受験したのでしょうか?

まぁとりあえず、看護師国家試験に合格された方お疲れ様でした。

今後の医療を担う人材になっていただくことを期待しております。
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葉山エレーヌ

葉山エレーヌがイケメン新恋人と新居でラブラブ♪しているそうです。

羨ましいですね。

葉山エレーヌは日本テレビのアナウンサーで非常に美人な女子アナなので

イケメンとお似合いですね。

葉山エレーヌの今後の動向に期待です。
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前田敦子 [時事]

前田敦子がAKB48を卒業するそうです。

あの前田敦子がAKB48を卒業するなんてびっくりです。

なんたって、AKB48の前回の総選挙で人気No1になった女の子ですからね。

さぁ、前田敦子がいなくなったAKB48を継ぐのは一体誰なんでしょうか?

僕的にはシノダマリコあたりに頑張ってほしいですね。

たぶん、前田敦子はソロデビューすると思うので、頑張ってほしいです。
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夏菜 純と愛 [時事]

夏菜が「純と愛」のヒロインとなることが決定いたしました。

夏菜は映画『GANTZ』やドラマ「らんま1/2」などに出演して一躍有名に

なりましたが、今回はNHKの朝ドラ「純と愛」のヒロインに大抜擢です。

夏菜の「純と愛」の活躍に期待したいですね。



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石黒昇 死去 [時事]

石黒昇さんが死去しました。

石黒昇さんはアニメーション監督で、3/20の夕方5時ごろお亡くなりになられました。

一体、死去の原因はなんだったんでしょうね・・・。

ちなみに石黒昇さんは「宇宙戦艦ヤマト」の演出も手掛けておられるほど

すごく有名なアニメーション監督だったそうですよ。

石黒昇さんのご冥福をお祈りいたします。
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