小浅間

峰(みね)の茶屋(ちゃや)から第一の鳥居をくぐってしばらくこんもりした落葉樹林のトンネルを登って行くと、やがて急に樹木がなくなって、天地が明るくなる。そうして右をふり仰ぐと突兀(とっこつ)たる小浅間(こあさま)の熔岩塊(ようがんかい)が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそびえ立っている。その岩塊の頭を包むヴェールのように灰砂の斜面がなめらかにすそを引いてその上に細かく刺繍(ししゅう)をおいたように、オンタデや虎杖(いたどり)やみね柳やいろいろの矮草(わいそう)が散点している。
 一合目の鳥居の近くに一等水準点がある。深さ一メートルの四角なコンクリートの柱の頂上のまん中に径一寸ぐらいの金属の鋲(びょう)を埋め込んで、そのだいじな頭が摩滅したりつぶれたりしないように保護するために金属の円筒でその周囲を囲んである。その中に雨水がたまっていた。自分はその水中に右の人差し指を浸してちょっとその鋲の頭にさわってみた。
 この火山の機巧の秘密を探ろうと努力している多くの熱心な元気な若い学者たちにきわめて貴重なデータを供給するために、陸地測量部の人たちが頻繁(ひんぱん)な爆発の危険に身命をさらしながら爆発の合い間をねらっては水準測量をしている。その並み並みならぬ労苦は世人の夢にも知らない別世界のものである。そんなことを無意識に考えたためでもあろうか、この水準点ベンチマークの鋲の丸いあたまに不思議な愛着のようなものを感じてちょっとさわってみないではいられなかったのである。
 水準点のすぐそばに木の角柱が一本立っている。もうだいぶ長く雨風にさらされて白くされ古びとげとげしく木理(もくめ)を現わしているのであるが、その柱の一面に年月日と名字とが刻してある。これは数年前京都大学の地球物理学者たちがここにエアトヴァスの重力偏差計をすえ付けて観測した地点を示す標柱だそうである。年々に何百人という登山者のうちで、こんな柱の立っているのに気のつく人はいくらもないかもしれない。まして、その柱の意味を知る人はおそらく一人もないかもしれない。
 小浅間(こあさま)への登りは思いのほか楽ではあったが、それでも中腹までひといきに登ったら呼吸が苦しくなり、妙に下腹が引きつって、おまけに前頭部が時々ずきずき痛むような気がしたので、しばらく道ばたに腰をおろして休息した。そうしてかくしのキャラメルを取り出して三つ四つ一度に頬張(ほおば)りながら南方のすそ野から遠い前面の山々へかけての眺望(ちょうぼう)をむさぼることにした。自分の郷里の土佐(とさ)なども山国であるからこうしたながめも珍しくないようではあるが、しかし自分の知る郷里の山々は山の形がわりに単調でありその排列のしかたにも変化が乏しいように思われるが、ここから見た山々の形態とその排置とには異常に多様複雑な変化があって、それがここの景観の節奏と色彩とを著しく高め深めているように思われた。
 まわりに落ち散らばっている火山の噴出物にも実にいろいろな種類のものがある。多稜形(たりょうけい)をした外面が黒く緻密(ちみつ)な岩はだを示して、それに深い亀裂(きれつ)の入った麺麭殻(ブレッドクラスト)型の火山弾もある。赤熱した岩片が落下して表面は急激に冷えるが内部は急には冷えない、それが徐々に冷える間は、岩質中に含まれたガス体が外部の圧力の減った結果として次第に泡沫(ほうまつ)となって遊離して来る、従って内部が次第に海綿状に粗鬆(そそう)になると同時に膨張して外側の固結した皮殻(ひかく)に深い亀裂を生じたのではないかという気がする。表面の殻(かく)が冷却収縮したためというだけではどうも説明がむつかしいように思われる。実際この種の火山弾の破片で内部の軽石状構造を示すものが多いようである。
 それからまた、ちょっと見ると火打ち石のように見える堅緻(けんち)で灰白色で鋭い稜角(りょうかく)を示したのもあるが、この種のものであまり大きい破片は少なくもこのへんでは見当たらない。
 厚さ一センチ程度で長さ二十センチもある扁平(へんぺい)な板切れのような、たとえば松樹の皮の鱗片(りんぺん)の大きいのといったような相貌(そうぼう)をした岩片も散在している。このままの形で降ったものか、それとも大きな岩塊の表層が剥脱(はくだつ)したものか、どうか、これだけでは判断しにくいが、おそらく後者であろう。こんな薄っぺらなものが噴出されたとしても、空中で衝突し合って砕けやすいであろうし、また落下の衝動でも割れないわけにはゆかないであろうと思われた。
 その他にもいろいろな種類の噴出物がそれぞれにちがった経歴を秘めかくして静かに横たわっている。一つ一つが貴重なロゼッタストーンである。その表面と内部にはおそらく数百ページにも印刷し切れないだけの「記録」が包蔵されている。悲しいことにはわれわれはまだ、その聖文字(ヒエログリフ)を読みほごす知能が恵まれていない。
 数分の休息と三片のキャラメルで自分の体内の血液の成分が正常に復したと見えてすっかり元気を取りもどしてひと息に頂上までたどりつくことができた。
 頂上にはD研究所のT理学士が天文の観測をするためにもう十数日来テントを張って滞在している。バンベルヒの天頂儀(ゼニステレスコープ)をすえ付けて天頂近く子午線を通過する星を観測してこの地点の緯度をできるだけ精密に測定しておく、そうして他日また同じ観測を繰り返して、この地点が火山活動の影響のためにいくらかでも移動するかどうかを験出しようというのである。
 観測器械を入れたテントのそばには無線電信受信用のアンテナが張ってある。毎日午前十一時とかに東京天文台から放送される時報を受け取ってクロノメーターの時差を験するためである。
 このテントから少し北に離れて住居用の長方形テントが張ってある。ここがT君と陸地測量部から派遣された二人の測夫と三人の仮の宿である。これからまた少し離れた斜面にヤシャブシを伐採して急造した風流な緑葉ぶきの炊事小屋が建ててある。三本の木の株で組み立てられた竈(かまど)の飯釜(めしがま)の下からは楽しげな炊煙がなびいている。小屋の中の片側には数日分の薪材(しんざい)に付近の灌木林(かんぼくりん)から伐(き)り集めた小枝大枝が小ぎれいに切りそろえ積みそろえられていかにも落ち着いた家庭的な気持ちを感じさせる。
 測量部の測夫たちは多年こうした仕事に慣れ切っていて、一方では強力(ごうりき)人夫の荒仕事もすると同時にまた一方ではまめやかな主婦のいとなみもするのである。そうしてまた一方では観測仕事の助手としても役に立つという世にも不思議な職業である。年じゅう人の行かない山の中でこうした生活をして、陸地測量、地図作製という文化的な基礎仕事に貢献しているのである。
 測夫の一人はもう四十年も昔からこの仕事をつづけているそうで、北はカラフトから南は台湾(たいわん)まで足跡を印しない土地は少ないのだそうである。テントの中で昼食の握り飯をくいながら、この測夫の体験談を聞いた。いちばん恐ろしかったのは奄美大島(あまみおおしま)の中の無人の離れ島で台風に襲われたときであった。真夜中に荒波が岸をはい上がってテントの直前数メートルの所まで押し寄せたときは、もうひと波でさらわれるかと思った。そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それから長年月の後までも時々夢魔となって半夜の眠りを脅かしたそうである。また同じ島に滞在中のある夜琉球人(りゅうきゅうじん)の漁船が寄港したので岸の上から大声をあげて呼びかけたら、なんと思ったかあわてて纜(ともづな)をといて逃げうせ、それっきり帰って来なかったそうである。カラフトでは向こうの高みから熊(くま)に「どなられて」青くなって逃げだしたこともあるという。えらい大きな声をして二声「どなった」そうである。
 テント内の夜の燈火は径一寸もあるような大きなろうそくである。風のあるときは石油ランプはかえって消えやすくていけないそうである。
 なんの気なしにもらって飲んだお茶の水は天気のいい時は峰(みね)の茶屋(ちゃや)からここまでかつぎ上げなければならぬ貴重なものである。雨のときはテントの屋根から集めるという。

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